館長の気ままな日記

三河工芸ガラス美術館の館長(オーナー) " カズ " こと神谷一彦の勝手気ままな独り言です。

三河工芸の館長が書く日記です

逝った先輩たち (15) Fリーダー10

こんにちは。

僕たちメイテック派遣社員もいよいよアイシン城山工場を離れるときが来た。

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このころは社名も名古屋技術センターからメイテックに変わっていた。

これはこの頃はやりだしたCI(コーポレーテッド・アイデンティティー)というやつで、社名を変えたりかっこいい社のロゴ・マークを作るするなどして企業イメージを高めようという戦術だ。

 

この頃、名古屋技術センターは中部地区でのクライアント数が頭打ちになり、更なる事業拡大を目指して関東や関西に進出しようとしていたのだが、このとき「名古屋」という名前が田舎っぽいというわけだ。とりわけ関東では新卒の採用で「名古屋」の名前では採りづらいのだそうだ。

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僕個人的には「名古屋技術センター」という名前はとても好きだったが、そんなわけで 新社名の社内公募が始まった。

 

「ジャパン・エンジニアリング」や「メイギセンター」など、沢山応募があったようだ。僕も「ワールド・エンジニアリング」で応募したが名前が大きすぎたのか見事落選。この名前にしとけば、今頃マイクロソフト並の会社になっていたであろうに。

 

最終的に「メイテック」で決まった。これは名古屋技術センターの愛称である「名技センター」のメイと、テクノロジーのテクをあわせたものだ。前身が名古屋技術センターであったことを忘れないという気持ちの表れだろう。

この名前を考えたやつは懸賞金100万円をゲットした。ただし、一人ではなかったようで何人かで山分けしたようだ。

 

このメイテックの改名をきっかけにして、世間では「〇〇テック」という社名がやたら増えだしたのだ。

 

さて、話を城山工場を離れるというところに戻すが、このころメイテックは破竹の勢いで成長しており、当時の社長(創業者) 関口房郎さんはクライアントに対して強気だった。

 

当時の僕たちの時間チャージ (客先が僕たち一人に支払う時間当たりの賃金 : 僕たちの給料ではない) がいくらだったかは知らされなかったが、5000円~7000円ということだったらしい。最終的には技術者の時間チャージは1万円を目標にしていた。

そのころ城山にはメイテック社員のほかに、より安価な「株式会社B設計」からも何人か来ていた。

そしてこの年、メイテックの契約賃金アップの要求ににアイシン側がNoを示したために契約は更新されなかったのだ。

 

しばらくして設計統括の石川さんから呼び出しがあった。呼び出されたのは深谷さんと山口さん、そして僕の3人だった。

メイテックを辞めてここに残らないかという誘いだった。

深谷さんは腕が良かったから当然だろう。山口さんはゲージ専門に設計してきたからゲージ担当の石川さんにとって必要な技術者だった。僕はNCレトロフィットの功績が認められてお誘いがかかったのだ。ヘッドハンティングというやつだ。

これはメイテックとの契約で禁止された背信行為だ。それを敢えてするのは二度とメイテックと契約しないという覚悟の表れでもある。

 

石川さんは「よく考えてうちに来てほしい。」と言ってくれた。

 

結局、僕たちは大西さんを除いて全員名古屋市矢場町にある中部事業部へ復帰することとなった。

大西さんは復帰を拒否、メイテックを退社して独立。そのままアイシン城山工場に残る選択をした。それも有りか、思った。

 

明日から当分の間、通勤時間のかかる名古屋通いだ。はぁ~・・。