館長の気ままな日記

三河工芸ガラス美術館の館長(オーナー) " カズ " こと神谷一彦の勝手気ままな独り言です。

三河工芸の館長が書く日記です

逝った先輩たち (22) Yさん5-いとまごい

こんにちは。

ちょっと間が開きましたが「逝った先輩たち」の続きをお話しします。 多分、今回が最後です。

 

K工機での仕事は長くは続かなかった。一年足らずだったと思う。

前もお話ししたが、K工機はラインやシステムの機械を注文によって一品製作するために、売ってしまった後にはK工機に対して何ら利益を生み出さない。だから出来るだけ安価に作らなければ利益が出ないのだ。

それに対して大隈やアイシンで作った冶工具や機械のように、作った後にそれ自体が製品を作ったり加工しやすくして会社に利益をもたらすので、お金をかけやすい面があるわけだ。

時間単価の高いメイテックの労働はK工機のような中小企業には割を食うのだ。

 

契約終了はメイテック派遣社員全員に同時に言い渡された。

僕たちはまたもや中部事業部の研修室に戻された。ところが僕ら元アイシン組にも不穏な空気が立ちこめてきた。遠距離派遣だ。

 

僕にも横浜へ行ってくれという打診が上司からあったが、僕の母は単身赴任はするなと常々僕に言っていた。行くなら夫婦一緒に行きなさいと。だけど僕たち夫婦が遠距離派遣になれば当時C型肝炎を発症していた母を独りにすることになる。それはできなかった。

そのころは一度は遠距離派遣を受け入れないと出世はさせないと言う暗黙のルールがあったが、僕は出世よりも家族を取った。

 

ほどなく僕は自宅から車で30分ほどの所にある幡豆町のIW電気というポンプのメーカーに単独派遣が決まった。今思えばこれは大変運のいいことだったのだ。

IW電気はとてもアットホームな会社で別の言い方をすればのんびりした会社だった。ここでは正社員同様、いや、それ以上に可愛がってもらい、とても居心地の良い会社だった。

ここで僕は最後のサラリーマン生活を送ることになる。

 

一方、山口さんはなかなか派遣先が決まらず、松本営業所出向の話が出た。ここは大隈時代にお世話になった種田さんが殉職した"魔の勤務地”でもあった。

山口さんもさんざん抵抗したが、ここがイヤなら君の勤務地はないとまで言われ、所長待遇を条件にしぶしぶ呑んだ。奥さんは家で英語塾を営んでいたので山口さんは単身赴任することとなった。

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僕も人が悪い。いちばん行きたくない営業所だったので、内心いい気味だと思っていたのだ。

 

松本営業所長となって“昇進”した山口さんだったが、たまに家に帰ってもまだ小さかったお子さんが自分になつかないとこぼしていたそうだ。

 

IW電気に勤務するようになって、僕も独りリーダーとして70~80人が出席する代表者連絡会に出席したが、毎回、山口さんとはお互い目も合わせない関係になっていた。

 

それからしばらくが経ち、ある代表者連絡会で山口さんを見かけた。そのとき、僕は山口さんがただごとでない状態だと感じた。

異様にやせ細っていたのだ。

僕は即座に「癌だ」と思った。僕の母方のおじいさんが胃ガンで同様なやせ方をするのを見ていたからだ。

 

謝るなら今しかないと思った僕は、それまでの意地やわだかまりを押さえて山口さんの前に歩み寄った。

 

「山口さん、今まですみませんでした。僕も馬鹿だから意地を張ったり突っぱったりして・・。」僕は何度も頭を下げた。

山口さんは力の無い声でほほえみを浮かべながらこう言った。

「おぅ…、神谷くんかぁ。 君はな、打てば響くというか…、素直に反応してくれるんで俺もいろいろ楽しかったよ。」

 

山口さんは笑って許してくれた。 多分、本当に許してくれた。

 

後で知ったことだが、山口さんはこの代表者連絡会の後で体調が悪化、緊急入院をしてそのまま病因で亡くなったそうだ。

無理をおして代表者連絡会に出席したのだろう。

山口さんは松本でストレスがたまり、コーヒーとタバコ、それに胃腸薬ばかりを飲んでいたそうだ。

 

山口さんが生きているうちに謝罪が出来たことは僕にとって救いだった。

こんなふうに若いときは人と衝突ばかりを繰り返していた。自分中心だったんだ。

 

“逝った先輩たち” は今回でひとまず終わるが、ここまでで言いたかったことは実はただ一つ。 タバコを止めて欲しいと言うことなのだ。

 

僕の大事な先輩でどうしてもタバコが止められない人がいる。いや、止めようという気がないのだ。

 

この気持ちが彼に伝わるといいのだけれど。