「その火を飛び越してこい。その火を飛び越してきたら」
少女は息せいてはいるが、清らかな弾んだ声で言った。裸の若者は躊躇しなかった。爪先に弾みを付けて、彼の炎に映えた体は、火のなかへまっしぐらに飛び込んだ。次の刹那にその体は少女のすぐ前にあった。彼の胸は乳房に軽く触れた。『この弾力だ。前に赤いセエタアの下に俺が想像したのはこの弾力だ』と若者は感動して思った。(潮騒,新潮文庫より引用)
三島由紀夫の小説「潮騒」のなかでもっとも有名な一節だ。この小説で新治と初江が愛を確かめるクライマックスになっている。そして若者の女性に対する憧れと好奇心を端的に表現する文として何かの書に紹介されていたのを記憶している。
その舞台となったのがこれから行く「観的哨」(かんてきしょう:監的哨とも書く)だ。
神島灯台の段々を下りると左に観的哨への道しるべがある。ここから410メートルの距離らしい。ここまでは海の見える山沿いの道だったが、これから先は山のなかへ分け入っていく感じだ。
島民によって度々除草はされているのだろうが、梅雨のこの時期は雑草の伸びが早く、観光客もあまり立ち入らない様子で、草は山道に覆い被さるように両側から迫ってくる。
道幅は狭く、90センチもない上に、草が両脇からかぶさっているので歩ける幅は30センチほどしかない。
石段は雨が降ったのか、濡れていて、苔に覆われているため足下がおぼつかない。気を付けないと転びそうだ。
さらに坂は急で、休み休み進まないと息が持たない。
しばらく上ると道は下り坂に変わった。 下草も少しずつ少なくなり、道に細かな落ち葉が積もっている。
すると下り坂の先が次第に明るくなり、急に空が開けた。
左手に吾妻屋が現れ、その奥に灰色にくすんだ四角い建物が見えた。
観的哨だ。
僕たちは吾妻屋の木のベンチに腰を下ろし、一息ついた。たちまち蚊が寄ってくる。お茶を飲んで休憩もそこそこに観的哨につながる階段を下りる。
思ったよりきれいだ。
国土交通省の整備が入って、朽ちて鉄筋がむき出しだった窓は修理され、外壁一面にあった敵戦闘機の機銃掃射の弾痕もモルタルでふさがれていた。
建物横には観的哨のなんたるかが説明してある。
一階の中は薄暗く殺風景である。小説では窓が板で塞がれ、ここに粗朶(そだ)がうずたかく積まれていた。今はきれいに掃き片づけられている。
入り口の左脇にある狭い階段を上ると二階に出る。二階は大きな窓で海側に開かれ、床には雨水が溜まっている。
ここからバルコニーに面した外階段を上がると屋上に出る。外壁に無数に明いた機銃の弾痕が生々しい。
東は渥美半島と遠州灘を望み南の太平洋を見渡して南西の熊野灘に続く海が一望できる。熊野灘の方角に霞んで見える山々は志摩、大王崎の方角だ。
屋上に柵が設けられたのは近年のことだ。以前の写真を見ると柵は無かった。屋上のコンクリート擁壁は大人の腰丈ほどしかなく、うっかり身を乗り出すと危険なのでこの鉄柵が設けられた。鉄柵の外には出られない。
眼下には穏やかだが岩に打ち付けては砕ける潮騒が轟いている。
海や岩は昔のままだ。