館長の気ままな日記

三河工芸ガラス美術館の館長(オーナー) " カズ " こと神谷一彦の勝手気ままな独り言です。

三河工芸の館長が書く日記です

1971 マスタングマッハ1 夢が現実に2

こんにちは。

僕は頭金をリュックサックに入れて大阪府豊中市の外車専門中古車店に行った。店の名前は忘れたが、可愛らしい看板嬢をウリにしたショップだった。

ショップは大通りに面した小さな中古車屋で、行くと店員がコソコソと車のフロントガラスに貼られた値札を交換しているように見えた。

価格は185万円。 あれ? 雑誌で見たときは180万円だったような・・。

男の店員が二人いた。ちょっとうさんくさそうな風体だが、まあ、外車の中古車販売なんてこんな感じかなぁ、トヨタディーラーの店員さんとは違うなぁといぶかしく思いながらも現車を見せてもらう。

可愛い看板娘はいなかった。何日か前に辞めたそうだ。 今思えば看板嬢なんて初めからいなかったのかも。写真だけで。(笑)

 

ライトグリーンのメタリック車だ。本当は白が良かったのだが色なんて選べない。

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(この写真に写っているのは僕ではなく、僕のバイト仲間だ。京都ドライブに行ったときのもの)

 

中古車なのでピカピカとはいかないが、まずまずの外観。ファイヤーストンのホワイトレタータイヤがアメ車らしくてかっこいい。内装はちょっと使用感のあるアイボリー。テールのウイングは取り外されていた。

ちょっとやくざっぽい社長だったが僕のムスタングに対する思いを良く分かってくれた。

「そらぁにいちゃん、良かったで。なんも知らんと焦って平行輸入車なんぞ買おうもんなら後からいろいろ不具合出てくるでよぉ、その点、うちのはちゃんとしたデーラーもんでっさかいな。」

僕はこの車が気に入った。だが、まだ学生なのでローンが組めない。お袋には内緒だ。外車を買うなんて言えば反対されるに決まっている。

 

頭金を払って後は毎月3万5千円、僕を信用して36回の約束手形にしてくれた。手形が完済するまでは所有権留保だ。その後、毎月毎月八事の東海銀行まで支払いに通ったのを思い出す。長い3年だったなぁ。

 

社長にざっと操作法を説明してもらい、僕はこの車、初めて乗る左ハンドル車に恐る恐る乗り込んだ。

社長は「きいつけてな。ゆっくり帰り。」

僕 「斜め後ろが全然見えませんね。車線変更が怖くてできないよ。」

社長 「心配いらへん。ゆっくり車線変更したら、みんなよけてくれるがな。」

 

ちょっとアクセルを踏み込む。グワッとボンネットが浮き上がり巨体が動き出す。 ボンネットはうずたかく盛り上がっていて前がよく見えない。日本車とはまるで違う操作感覚。

僕は緊張しまくりで東名阪を一路愛知県へ。

帰りの道は混雑していたが社長の言ったとおり、他の車は誰も近づいてこない。後続車はしっかり車間距離を取っている。

当時はアメリカ車の神戸ナンバーといえば、たいていやーさんと相場が決まっていたからだろう。それぐらい外車が珍しい時代だったのだ。