館長の気ままな日記

三河工芸ガラス美術館の館長(オーナー) " カズ " こと神谷一彦の勝手気ままな独り言です。

三河工芸の館長が書く日記です

1971 マスタングマッハ1 夢が現実に3

こんにちは。

僕が73年型マスタングを選んだのには訳がある。

この形のマスタングは1971年から1973年までの3年間だ。その中で'71年と'72年は外観は同じ。'73年はフロントとリヤのバンパーがそれまでのものと変更されている。特にフロントのバンパーは形が大きく違う。

僕個人の好みで言えば '71-'72年型の方がすっきりしていて好きだ。だが、僕は年式の新しいことでこの '73年型を選んだ。それと大阪のマッハ1が排気量 351c.i.d、つまり 5700cc だったことも決め手だった。

もう一つの選択肢は 429c.i.d、つまり 7030cc 。当時の自動車税は11万円くらいだった。燃費は市街地走行でリッター2~3キロだと言われていた。

その点、 351は自動車税約8万円、燃費はリッター5~6キロとちょっと経済的。お金のない学生にとって7リッターは選べなかったのだ。

それに新しい方がいいじゃん。^ ^

 

ところが乗り始めてまもなく、次々と不具合が出始める。オイル漏れやら、ラジエターの水漏れ、ファンベルトの不具合など、とても全ては思い出せないが、何か部品一つを交換するにしても全てが輸入品、国産車に比較してとてつもなく高くつく。当時は1ドルが250円くらいだったようだから、交換部品はとても高価だったのだ。

 

修理しようにもどこへ頼んだらいいのか分からない。近鉄モータースなんぞ正規ディーラーに頼もうものならいくらかかるか分からないし。

学生でバイト代くらいしか収入源が無く、しかも手形で毎月3万5000円を返済中。極貧生活とまではいかないまでも貧しい生活をしていた僕にとって、この車の維持費は大きな負担だった。

 

当時僕は名城大学にほど近い、天白区植田にあった6畳一間に小さな玄関と流し台の付いた安アパートに住んでいた。名を翠月荘といった。

シングルベッドに机、ファスナーの付いた洋服掛けを置いたらいっぱいだった。

お風呂もトイレも共同。アパートには名城大学中京大学の男子学生、それに1/4がクリンビューでおなじみのタイホー工業の社宅になっていた。

 

話しがそれたが、その僕のアパートから東へ400メートルほどのところにあるちょっと大きなアパートにモスグリーンの綺麗なマスタンググランデが時々止まっているのを見つけた。

f:id:mikawakougei:20160110043105j:plain (同型車)

 

僕はそのオーナーさんにどこで整備しているのか聞きたかった。

たまたま居合わせたそのアパートの住人に、グランデのオーナーさんの部屋を聞いて尋ねていった。恐いお兄さんでなければいいけど‥と、内心ドキドキしながらチャイムを押す。

 

オーナーさんはなんと若くてきれいなお姉さんだった。 気さくな人で、車を見ながら

「貴方はマッハ1を持ってるのね、いいわねぇ。私はここから400メートルほど行ったところの東和自動車さんで整備してもらってるわ。安くて丁寧に見てもらえるわよ。」

 

どうやらスナックかクラブのホステスさんみたいだ。彼女とはそれっきりだが、しばらくするとそのグランデはアパートからなくなっていた。引っ越したのだろう。

 

僕はそのお姉さんのお陰で生涯の友人、東和さんに知り合うことになる。

 

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