館長の気ままな日記

三河工芸ガラス美術館の館長(オーナー) " カズ " こと神谷一彦の勝手気ままな独り言です。

三河工芸の館長が書く日記です

逝った先輩たち (1) T営業所所長

こんにちは。

僕が大学を卒業して就職した会社、名古屋技術センターは、当時名古屋の矢場町に本社を置く設計技術者派遣会社で、今で言うアウトソーシング会社だ。

僕は名城大学の機械科卒。技術者になることを中学時代から何となく目指していたので名古屋技術センターに入社したことは自然な流れだった。

この会社を目指して勉強してきたわけではなく、友達が何人かここへ行くというのでじゃ、僕も・・といった感じでたいした目的意識もなく、つられて入ったという感じだ。

設計者派遣会社とはいっても今の人材派遣とはちょっと業態が違う。

ちゃんとした正規雇用で組合もあった。大抵の設計者は出向先で設計業務に就くが、一部は本社で設計を受託していた。

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名古屋技術センターは僕が入社した頃はものすごい勢いで成長していて、社員は400名を超えていた。そのわずか数年前に設計者たった7人で始めた会社で、瞬く間に大会社に成長した会社だ。

ベンチャー企業”という言葉が出来たのは恐らく名古屋技術センターがきっかけだったと思う。

 

そんな会社に入れたのは、とにかく設計者不足で工学部卒なら誰でもいいから採用、といったいけいけムードがあったので僕みたいなぼんくら人間でも入社できたと思う。いい時代だった訳だ。もちろん他の先輩たちは一流企業からヘッドハンティングされたエキスパートや一流大卒の秀才もたくさんいたと思う。

 

そんな僕が最初に出向を命じられたのは当時名古屋市北区にあった大隈鉄工所だ。現在の大口町に移転する前のことだ。

大学では大してまじめに勉強などしなかった僕だから、大隈へ行ったところですぐに役に立つはずなどない。最初に任された仕事は技術提携した外国企業に提供する、オークマの工作機械の何百枚という図面を英訳するという業務だった。

これなら大して機械の知識がなくても英語力さえあれば出来るわけだ。

英語ができたのかって?・・・全然。^ ^

 

僕が英訳した図面を見た先方は、目を色黒させたに違いない。

 

つづく