館長の気ままな日記

三河工芸ガラス美術館の館長(オーナー) " カズ " こと神谷一彦の勝手気ままな独り言です。

三河工芸の館長が書く日記です

逝った先輩たち (18) Yさん1

こんにちは。

久々に僕のメイテック時代のお話をします。

初めに言っておくが、お題のYさんとはアイシン精機城山工場で一緒だった山口さんのことだ。

前回お話ししたが、僕たちはメイテックがアイシンと人件費の交渉で決裂してメイテック中部事業部へ戻っていた。

 

今思えば、この頃メイテックの派遣チャージ (人件費) はすでに限界に来ていたと思う。だけど名古屋技術センター時代から破竹の勢いで成長してきたメイテックの社長にしてみればまさに怖いもの無しだった。

 

ここで創業者である関口社長について少しふれると、関口社長は名技センター(名古屋技術センター)を設立する以前に二度ほど会社を設立して倒産させている。

その後三度目の正直で、名古屋技術センターを技術者7名でスタートさせた。そのときのことは今も「7人の侍」と言って社員の間で伝説になっている。

ただ、僕が入社した頃は名技センターを設立する前の会社を倒産解雇した社員らと賃金の未払いなどを巡って裁判になっていて、矢場町の本社前ではプラカードを持った元社員たちが抗議のシュプレヒコールを上げていたそうだ。

だから社長には雇われ代理社長を立て、自らは相談役となって影で会社を動かしていたと聞く。

そのうち和解が成立したのか、社長に就任、表舞台に立つようになった。

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時はバブルのまっただ中、関口社長は兎に角派手なことが好きで、特にメディアに対して目立ちたがりだった。

今でも語りぐさになっているのがディスコ入社式や、関口氏の息子が関口氏から買ってもらったフェラーリテスタロッサというスーパーカーを山道でドライブ中に燃やしたことだ。

自然発火したらしいが丸燃えになったフェラーリを前に、テレビのインタビューに答えたセリフが話題になった。

「平気です。また、買ってもらいますから。」

 

関口社長は確かにビジネスのセンスは先見のある独特のものがあった。当時はカリスマ社長といわれたものだ。カリスマ~の走りである。ただ、僕にはカリスマと言うよりも単にワンマンと映った。彼の取り巻きは東レ出身のイエスマンばかりだったそうだから。

僕ら社員や上司も会社に不満がないわけではなかったが、やくざっぽい威圧感を持っていて、社長懇談会なるものも催されたが、誰も要望など言えるものではなかったのだ。

 

さて、話しを戻そう。

何週間か中部事業部勤務をした後、僕は蒲郡市にあるK工機に派遣が決まった。K工機は設備機械やオートローダー(簡易ロボットのようなもの)を一品製作する会社で僕の得意な仕事分野だった。

僕より若いメイテック社員がすでに二人いて、僕がリーダーになった。

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初めて部下が出来て、仕事にますますはりあいが出てきたのだった。