館長の気ままな日記

三河工芸ガラス美術館の館長(オーナー) " カズ " こと神谷一彦の勝手気ままな独り言です。

三河工芸の館長が書く日記です

1971 マスタングマッハ1 夢が現実に4

こんにちは。

僕は期待を持って東和自動車整備を訪ねていった。僕のアパートから東南へ800メートルくらいのところ、アパートの東を流れる植田川を越えた飯田街道の近くだ。

 

訪ねていくと社長は車の整備中だった。

「ちょっと待っててや。」

f:id:mikawakougei:20160111025258j:plain (37~38年前の東和さん)

 

作業のキリが付いたところで社長が表に出てきた。僕が東和さんと呼んでいる社長は本名を園原さんという。僕より6つくらい年上らしい。なのに中規模整備工場の社長。坪井さんという社長と同年くらいの整備士ともう一人若い整備士、そして事務の奥さんの4人で経営していた。

一国一城の立派なあるじだ。

 

東和さんは色黒でパンチパーマ、日本人離れした彫りの深いエキゾチックな顔立ちで眉毛は薄い。一見すると恐そうなお兄さんだ。ちょっとビビったがニコニコしながら相談に乗ってくれたのですぐに打ち解けられた。

 

工場にはカマロやコルヴェットといったアメ車の他、ベンツやフェラーリジャガーといった高級車が所狭しと並べられ、修理、点検の順番を待っていた。

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アパートから整備工場まで近いこともあり、僕は東和さんの所までたびたび遊びに行った。

東和さんの自宅は整備工場の2階にあり、奥さんと小学生の男の子、まだ幼稚園だと思われる可愛い女の子の4人家族で暮らしていた。

僕はその後、親しくお付き合いしてもらうようになり、家族と一緒に夕食をご馳走してもらったり、酒盛りをして泊めてもらったこともあった。

 

僕は貧乏で修理代が払えず、何ヶ月も支払いを待ってもらったこともあるが、男気の強い社長で、催促されたことなど一度もなかった。

 

僕と東和さんとのお付き合いは僕がマスタングを手放すまで続いた。