館長の気ままな日記

三河工芸ガラス美術館の館長(オーナー) " カズ " こと神谷一彦の勝手気ままな独り言です。

三河工芸の館長が書く日記です

逝った先輩たち (5) T営業所所長5 葬儀

こんにちは。 

種田さんの話に戻そう。種田さんは持ち前の人なつっこさと人望を武器に、また、リーダーとして本社とのパイプ役を勤める内に本社内でも頭角を現した。

ただ、無理がたたったのか、一度肝臓を壊して入院し、やまちゃんら大隈グループ何人かでお見舞いに行った記憶がある。そのときは元気そうで皆で談笑して帰った。

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僕も大隈での仕事は3年くらいになっていた。その間、僕は母が西尾で一人暮らしをしていることが常々心配で、大口町から西尾に帰りたいと、本社に転属を希望していた。

大隈の慰留もあって結局4年ほど大隈を勤めたが、その後西尾市にあるアイシン精機城山工場に配属となった。

 

種田さんは向上心の強い人で、僕が西尾に来てからは大隈を終了し松本営業所に単身赴任、松本営業所所長になるなど、僕の目からはものすごいスピードで出世しているように見えた。

長野県は工業の盛んな県で、ここでの顧客開拓に松本は重要な拠点になるからだ。種田さんはここでも相当ハードに活動したと思う。そして営業所を事業所に格上げした。

そして本社で行われる代表者連絡会で、大勢を前に壇上に上がって松本事業所の業績を説明する姿は大隈でグループリーダーをしていた頃とは違い、偉く遠い存在に見えた。

 

31歳で結婚し、親元で平穏に過ごしていた僕の元に訃報が入ったのは、西尾に戻って4年程経った頃のことだった。

種田さんが亡くなったのだ。

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棺の種田さんは顔がむくれ、戦いに敗れた戦士のように穏やかなお顔ではなかった。大隈時代の面影はなくなっていた。

死因は幹細胞癌だったと記憶している。 享年42歳。

過度のストレスと接待酒、そしてタバコが原因だと僕は思っている。

上のお写真は僕たちの結婚式に出てくれたときのものだ。

 

葬儀で社長が弔辞を読む。はっきりとしたかん高い声で。

「種田君!君が亡くなっても名古屋技術センターはますます発展していくことでしょう・・・」

 

この弔辞をご遺族はどんな気持ちで聞いていたことだろう。

親族代表の挨拶では種田さんのお兄さんが、

「弟は会社のために命を削って尽くしました・・・」

叫ぶような涙声で無念さをにじませた。

 

葬儀が終わると社長は斎場の前で、お抱え運転手付きで乗りつけた国内に数台しかないという超高級車、小山のように大きなロールスロイス・ファントムⅣを方向転換させていた。

f:id:mikawakougei:20151007001902j:plain (同型車)

 

その間参列者はその様子をじっと見守っていた。

意気揚々とロールスに乗り込む社長。車内で片手を顔の前にかざし、群衆に挨拶しながら斎場を出て行く社長。 一斉に頭を下げる群衆。 ほとんどが名技センターの社員だ。 僕は頭を下げなかった。

誰が主役なんだか。

僕も今までの人生で、穴があったら入りたくなるような恥ずかしい行いは何度もしてしまったが、この日のことは人ごとながら恥ずかしい。

僕だってちっぽけな人間だから、もてはやされておだてられりゃ、こんな勘違いをするかもしれない。

 

種やん、天国ではのんびりやってよ。